2004年7月14日〜7月20日 /銀座松坂屋別館4階画廊


 

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 会場風景 三室 (触ると動きます)
 

 

   > この展覧会は15年間続き、伊藤髟耳と15人の多摩美術大学の後輩が展示をしてまいりました。
     今回は最後に総集編という事で、今まで参加してきたメンバー全員の展示を、ということでした。

     展覧会場には作品の他、伊藤髟耳が今まで出会ったメンバーについて、個々にコメント書いています。
     作品の下に掲載されている文章がそれです。
     この最後の展覧会に、何かしらの理由で参加できなかったメンバーについてもつづられています。

 

 

清水智和
“ カワルモノ、カワラナイモノ” 182×182cm

 

  清水 智和さん

日展で活躍されていて、やはり日展作家の仕事を思わせるフンイキがあります。
まだ三十代、そのうち個性が確立してゆくと思っています。
動物をテーマにした時、飛ぶ鳥をイメージして飛行機、空港の一角にある機体を表現した時はこじつけのようで、あぜんとしました。
小品に自分の家で飼っているうさぎを描かれましたがなかなかかわいいもので作品希望者も出ました。
本人は人物がにが手といっていました。
メンバー一人一人モデルになってクロッキーを描きましたが、動きのある人物が描けていました。
私は作品にはすべてが出ていると思っています。題材、形状はさまざまでも自分を描いていると思っています。
こだわりを捨て、にが手意識を捨て、描いて良いのではと思っています。
ここにビジネスが介入するとかぎられた絵を描く方向になるかもしれません。
 
  二〇〇四年七月                伊藤 髟耳

 

 

 

名尾光次郎
“ フユウ−T ” 90×90cm

 

  名尾 光次郎さん 

口数の少ない、先輩の二人の後に立っているという感じでしたが、自分の意見はきちんと言っていました。
作画においては若い人の中にこんなに不器用な仕事をする人がいるのかと思うほど、小器用な若者が多い中でめずらしい存在だと思いました。
植物を題材にした場合が多く、その中でも蓮をテーマにしたものが多く、それも花ではなく葉を、
展示するもで数回 見せてもらいましたが完成するのだろうかと思うほどまだまだまとまらないという感じです。
一生のうち、絵かきとして どう、いつ 花を咲かせるか、
早く小さな花を咲かせてしまうか、時間をかけて、しっかりしたつぼみを作りゆっくり大きな花を咲かせるか いつかは散るのだから
絵かきとして散っても、人間として生きているとしたら……
本人の努力は三年の展覧会が終わっても続きました。
私は「月に一度の研究会」を開いています。誰でも参加出来るという研究会を持っています。彼は良く作品を持って来ました。
本人は気付いていないかもしれませんが絵に説得力が出てきたような、存在感が出て来たような気がします。
自然の形からアブストラクトが生まれていると思います。
この展覧会の後、しばらく日本を離れ、イギリスの生活がはじまるようです。

    二〇〇四年七月         伊藤 髟耳

 

 

 

野崎和弘
“ sight ” S80号

 

 野崎 和弘さん

日展に入選された時はどのような作品だったのでしょう。
どのような作品だったかは私にはわかりません。
若い時から、ただの表示力だけの制作ではなく、深めた表現で、骨太な制作に大地のエネルギーを感じる作品でした。
グループ展、個展で作品発表されていたようです。
アブストラクトへと進んでいます。
頭で作る画面ではなく、何か求める気持ちを感じています。題材から吸収した結果出来上がる画面を、
先日見せていただいた作品は画面が澄み、
どんどん極めているように思います。

   二〇〇四年七月       伊藤 髟耳

 

 

 

林克彦
“ しずかに回る ” S80号

 林 克彦さん

少年のような好奇心を持ちながら動いている作家だと思っています。
水の中でゆれ動く泳ぐ人物をテーマにした作品が続いています。
イメージによる人物表現から、おとうさん、おかあさんの顔を描いた事から説得力、深みが出ると思います。
いつの間にか、親子ほどの年齢差のメンバーになり、感覚のずれを感じなくてはならないのだろうと思っています。
今は不思議と感じていないので、この時が潮時かもしれません。
本物だったら、潮時などないのですが・・・
すみきった色彩が気持ちよく、人々のからだに入ってゆくのでしょう。
めずらしく線を美しく生かされる絵を描ける作家なのでしょう。
創画会展にも出品しています。
安全な足がためをしながら創作を続ける若者なのだろうなと思っています。

   二〇〇四年七月              伊藤 髟耳

 

 

 

三輪真
“ hito-ma ” M100号

 

 三輪 真さん

世田谷美術館での日本画科の卒業展で三輪さんの作品を見ました。
人体を表現され、まだ整理が出来てる画面ではなかったかもしれませんが、何か魅力を感じました。
多くの色を使いながら画面ににごりを感じないのが不思議でした。
日展、京都で活躍されている三輪良平先生の二男とわかり、ゆくゆくは日展で活躍されるのだろうと思って、
その点をたずねてみると、その気はないとの事、ひとときでもそう思って自分の力をためそうと思っているようすに大きな力を持っている人と思いました。
その後、お父さんである三輪良平先生にお会いする機会があり、やはり、日展で活躍してもらいたい気持ちが伝わって来ました。
別れて十数年になりますが今でも無所属として制作されているようです。
京都、鉄斎堂ギャラリーでの個展、グループ展等で発表されているのを見、
画面も整理され、みやすい作品になられていると思っています。
これから一歩一歩、ここで、とどまらず、深めていって一人の個性ある作家になって欲しいと思っています。

   二〇〇四年七月               伊藤 髟耳

 

 

 

山本一博
“ 木にのぼる ” 212.2×92.2cm

 

 山本 一博さん

人をまとめる事をまかせられると思いました。
若者の持っているモダンな感性を生かした作品を描いていました。
写真を使った作品作りついて、私なりの絵に対する考えを伝えてゆきました。
題材と対面し題材からいろいろなものを教えてもらう、そこではすなおさが必要だと思います。
自分の力を過信することなく題材から時間をかけて接し学びたいものです。
写真を使って簡単に絵を作らない方が良いのではと思っています。
作家として成長して、六〇代になっても、八〇代になっても、かがやく絵を描きたいものです。
院展に発表してゆきたいと相談を受け、私は魅力的な仕事をしている梅原さんに指導を受けるようにすすめ、
一回院展に入選することは出来ましたがこれから本人がどう動くか興味を持ってみてゆこうと思っています。
にくめない好青年です。
題材からも好感を持たれ多くのものを学ばせてもらえるはずと思っています。

   二〇〇四年七月               伊藤 髟耳

 

 

 


   > 今回参加できなかったメンバーについて、つづられた文章

 

 

 等々力 克彦さん

等々力さんはこの展覧会のスタートにあたっての要になっていました。
大学院の時、初出品した作品が入選され順調なスタートをするように思われたのですがその後、
院展に入選が出来ず、苦しかった事と思います。こつこつと制作していました。
いろいろな題材にチャレンジしています。
私には等々力さんのおじいさんの姿、農具を背にどっかり座っている姿は印象的でした。
仏像を描きはじめ十年ぶりに入選、良くあきらめずがんばったと思います。
最後になった春の院展の作品は無著像を描き、左手に遺骨を持っている作品。
いろいろな事から人間の最期は決められているのではと思わせた出来事でした。
三十四才の頃だったと思います。残念です。茶系の画面、重厚でした。

   二〇〇四年七月               伊藤 髟耳

 

 

 

 大西 範明さん

決してうまい作品を描く人ではないと思っていましたが親しみのある色彩(茶系)は印象に残っています。
三年間の中で一年、一年、成長を感じ、魅力を感じるようになっていました。
最後のテーマに人物を描き、不得意そうでした。
しかし、堂々と大作を描かれた事にエールを送りたいと思います。
生き生きした目を描く事が人物を描くのには大切である事に気付き、苦手に思わずに描いてもらいたいと思っています。
その後、連絡が取れず、今回の企画の案内ももどってきてしまいました。

   二〇〇四年七月               伊藤 髟耳

 

 

 

 斉藤 信一郎さん

創画会に発表の場を求めていたようです。
本人に会った人はその生真面目さを感ずると思います。
作品のすみずみにも感じています。
破綻の少ない作品ながら、一歩、人に伝わってゆく生命力は今一つかもしれません。
どちらかというと黒ぽくグレー調の画面でしたが、今、青島に移られ、賀状に描かれた風景はのんびりした、広々と明るい自然を感じます。
発表の機会が出来る事を望んでいます。
また出会いがある事を願っています。
「たまたま3+1(日本画展)」に来ていただいてもいます。
いつか会うのではと思っています。

   二〇〇四年七月               伊藤 髟耳

 

 

 

 半田 昌規さん

国立博物館で修復の仕事をやっておられ、お父さんと共に歴史に残った作品と接し、かなりの目を持っておられているのでしょう。
自分で表現する力はまだまだで、自分でもはがゆく思っていたようです。
数年前、生死をさ迷う病気をされ、この企画を伝えた時は元気そうでした。
研究会で下図を作られた意欲はありましたがドクターストップがかかり、制作断念される結果になりました。
古風ではありますがさわやかな青系の画面が思い出されます。

   二〇〇四年七月               伊藤 髟耳

 

 

  橋本 卓也さん

日展で活躍されていたと聞いていました。たしかに魅力的な作品です。
三人が集まっても、にこにこして、話言葉はゆっくりとし、本題に入るまでにずいぶん時間がかかりました。
本人に何が起こっているのか、まったくわからないまま三年が過ぎようとし、人物を題材に選んでみたところ、
作品がまったく進まずどうしたのだろうと思ったのですが、ここではじめてメンバーに選ばれてからも作品が描けずにいた事がわかりました。
私だけが知らなかったのです。
一点はどうにか描けても他の作品は前に描いていたものを出していたようです。
このような状態、本人にとっても大変な事だったと思います。
私は何に役立ったのだろうか。

また、絵を描けるようになるのだろうか。
これは人ごとではありません。
ぬくもりを感じる画面、良い作家になれる可能性、充分あるのにと思っています。

   二〇〇四年七月               伊藤 髟耳

 

 

 

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